Quantcast
Channel: アザラシの住処
Browsing all 21 articles
Browse latest View live

魏書 帝紀第一 序紀4

力微の子である章皇帝,拓跋悉鹿が大人となる 諸部は既に従わず国内は乱れに乱れ国を治める事9年目に崩じた章皇帝の弟である平皇帝,拓跋綽が大人となった 拓跋綽は雄雄しく賢く威厳と人徳を兼ね備えていた平帝7年、匈奴の宇文部の大人である莫槐が自分の部族民に殺されその弟の普撥を大人とした拓跋綽は普撥の子の丘不懃に自分の娘を嫁がせその年に崩じた拓跋沙漠汗の末子である思皇帝、拓跋弗が後を継ぎ大人となった...

View Article



魏書 帝紀第一 序紀5

穆皇帝、拓跋猗盧は天子の相をもち立派な風体でありその勇気と才知は人並みはずれていた昭帝、拓跋禄官の死後、後を継いで大人となり遂に3分割していた拓跋部を総攬した穆帝元年、劉淵は皇帝を自称し国号を大漢と称した...

View Article

魏書 帝紀第一 序紀6

穆帝7年、拓跋猗盧は劉琨と平陽にて合流することを決めたちょうどその頃、石勒が王浚を捕らえた 代国にも匈奴や雜胡など親石勒派の類が多くおり石勒が幽州を手中にしたことを聞くと石勒に呼応して国内で乱をおこそうとする計画があることが発覚した それらの首謀者を誅す為に手がまわらなくなり劉聦を討つ計画はここにおいて中止せざるを得なくなった...

View Article

魏書 帝紀第一 序紀7

拓跋猗イの真ん中の子である恵皇帝、拓跋賀傉が代王となった平文帝5年を恵帝元年とした 拓跋賀傉はまだ政治ができなかったので太后である母が代わりに政務を取り仕切り石勒と通好するため使者を遣わせた 当時の人は代国からの使者を女国の使いと呼んでいた 恵帝2年、司馬叡が死にその子の司馬紹が皇帝を僭称した...

View Article

魏書 帝紀第一 序紀8

拓跋鬱律の次男の昭成皇帝、拓跋什翼犍が代王となった 拓跋什翼犍は生まれながらにして優れておりまた寛大で外から見ても怒ってるのか喜んでいるのか分かりにくい人物であった身長は八尺で鼻が高くて龍に似た顔つきをしており立つと髪が地面に横たわるほどの長髪であり寝転がると胸が寝転がってる場所にくっつくほど垂れていた(相も変わらず皇帝の容姿って面倒… 太って腹の肉が垂れてる肥満のことを言いたいのだろうか…...

View Article


魏書 帝紀第一 序紀9

建国14年、什翼犍は『石胡(石勒たちの事)が衰滅し冉閔による混乱が中原を渦巻いている だがそれを正そうという者が誰一人出てこない そこで私自らが六軍を率いて親征し四海を統一しようと思う』と言い諸部を引き締め各々の部を統率させその時に備えた 諸大人が諌めて言うには『今、中原は大きく乱れており確かに進出するチャンスでしょう ですが如何せん強敵が並起していると聞きますので一挙に平定とはいかぬでしょう...

View Article

魏書 帝紀第一 序紀 終

建国30年冬十月、什翼犍は劉衛辰を征伐に出兵 まだ河の水が凍っておらず葦をまとめて即席で小船をつくろうとしたが水がにわかに凍ってきた だがまだ渡るほどには硬くなかったので葦を撒いたところ冰草と作りかけの小船と固まって浮橋のようになった 軍が渡れるようになったので出発すると突然、劉衛辰とその宗族は西に逃げ出しその部落に帰っていった 奴隷のほかに馬牛羊を数十万頭を入手した...

View Article

魏書 帝紀第二 太祖紀1

太祖道武皇帝、拓跋珪は昭成皇帝、拓跋什翼犍の孫であり献明皇帝、拓跋寔の子である 母は献明賀皇后という初め賀皇后は移動(什翼犍と一緒に逃げてる最中)のせいで疲れており寝たところ雲夢澤で遊び部屋の中から日が出る夢を見た...

View Article


魏書 帝紀第二 太祖紀2

太元元年、昭成皇帝の葬儀を柿の木が群立している雲中の金陵にておこなった太祖(拓跋珪)は幼かったが幼さを感じさせないぐらい聡明に見えた 劉庫仁が常々自分の子に『あの方には天下を飲み込むほどの志がある、再び大業を成し遂げ我らが祖先の栄光を回復する中興の祖に必ずやなってくださるだろう』と言っていた 太元2年冬十月、前秦の苻堅が淮南にて敗北した この月、慕容文らが劉庫仁を殺し劉庫仁の弟の劉眷が後を継いだ...

View Article


魏書 帝紀第二 太祖紀 3

冬10月、慕容賀の軍勢がまだ到着せず侵攻は止まず逼迫してきたので北部大人の叔孫普洛など十三人の大人や諸烏丸の民は劉衛辰の元へ逃亡した...

View Article

TVドラマ 蘭陵王を見た

時系列などが滅茶苦茶だったがまあまあ楽しめた...

View Article

魏書 帝紀第一 序紀5

穆皇帝、拓跋猗盧は天子の相をもち立派な風体でありその勇気と才知は人並みはずれていた昭帝、拓跋禄官の死後、後を継いで大人となり遂に3分割していた拓跋部を総攬した穆帝元年、劉淵は皇帝を自称し国号を大漢と称した...

View Article

魏書 帝紀第一 序紀6

穆帝7年、拓跋猗盧は劉琨と平陽にて合流することを決めたちょうどその頃、石勒が王浚を捕らえた 代国にも匈奴や雜胡など親石勒派の類が多くおり石勒が幽州を手中にしたことを聞くと石勒に呼応して国内で乱をおこそうとする計画があることが発覚した それらの首謀者を誅す為に手がまわらなくなり劉聦を討つ計画はここにおいて中止せざるを得なくなった...

View Article


魏書 帝紀第一 序紀7

拓跋猗イの真ん中の子である恵皇帝、拓跋賀傉が代王となった平文帝5年を恵帝元年とした 拓跋賀傉はまだ政治ができなかったので太后である母が代わりに政務を取り仕切り石勒と通好するため使者を遣わせた 当時の人は代国からの使者を女国の使いと呼んでいた 恵帝2年、司馬叡が死にその子の司馬紹が皇帝を僭称した...

View Article

魏書 帝紀第一 序紀8

拓跋鬱律の次男の昭成皇帝、拓跋什翼犍が代王となった 拓跋什翼犍は生まれながらにして優れておりまた寛大で外から見ても怒ってるのか喜んでいるのか分かりにくい人物であった身長は八尺で鼻が高くて龍に似た顔つきをしており立つと髪が地面に横たわるほどの長髪であり寝転がると胸が寝転がってる場所にくっつくほど垂れていた(相も変わらず皇帝の容姿って面倒… 太って腹の肉が垂れてる肥満のことを言いたいのだろうか…...

View Article


魏書 帝紀第一 序紀9

建国14年、什翼犍は『石胡(石勒たちの事)が衰滅し冉閔による混乱が中原を渦巻いている だがそれを正そうという者が誰一人出てこない そこで私自らが六軍を率いて親征し四海を統一しようと思う』と言い諸部を引き締め各々の部を統率させその時に備えた 諸大人が諌めて言うには『今、中原は大きく乱れており確かに進出するチャンスでしょう ですが如何せん強敵が並起していると聞きますので一挙に平定とはいかぬでしょう...

View Article

魏書 帝紀第一 序紀 終

建国30年冬十月、什翼犍は劉衛辰を征伐に出兵 まだ河の水が凍っておらず葦をまとめて即席で小船をつくろうとしたが水がにわかに凍ってきた だがまだ渡るほどには硬くなかったので葦を撒いたところ冰草と作りかけの小船と固まって浮橋のようになった 軍が渡れるようになったので出発すると突然、劉衛辰とその宗族は西に逃げ出しその部落に帰っていった 奴隷のほかに馬牛羊を数十万頭を入手した...

View Article


魏書 帝紀第二 太祖紀1

太祖道武皇帝、拓跋珪は昭成皇帝、拓跋什翼犍の孫であり献明皇帝、拓跋寔の子である 母は献明賀皇后という初め賀皇后は移動(什翼犍と一緒に逃げてる最中)のせいで疲れており寝たところ雲夢澤で遊び部屋の中から日が出る夢を見た...

View Article

魏書 帝紀第二 太祖紀2

太元元年、昭成皇帝の葬儀を柿の木が群立している雲中の金陵にておこなった太祖(拓跋珪)は幼かったが幼さを感じさせないぐらい聡明に見えた 劉庫仁が常々自分の子に『あの方には天下を飲み込むほどの志がある、再び大業を成し遂げ我らが祖先の栄光を回復する中興の祖に必ずやなってくださるだろう』と言っていた 太元2年冬十月、前秦の苻堅が淮南にて敗北した この月、慕容文らが劉庫仁を殺し劉庫仁の弟の劉眷が後を継いだ...

View Article

魏書 帝紀第二 太祖紀 3

冬10月、慕容賀の軍勢がまだ到着せず侵攻は止まず逼迫してきたので北部大人の叔孫普洛など十三人の大人や諸烏丸の民は劉衛辰の元へ逃亡した...

View Article
Browsing all 21 articles
Browse latest View live




Latest Images